2024年10月21日
第223回
長年連れ添った妻が逝った
 去る10月2日、53年連れ添った妻が亡くなりました。3年前に虫垂がんが見つかって摘出手術をしました。それから抗がん剤治療、大腸転移、再手術、再度抗がん剤治療と闘病生活が続きましたが、抗がん剤の副作用が強く中止しました。その頃から自活出来なくなり、老健に入所させました。
 実質的にはもう2年以上別々に暮らしており、私としては一人暮らしが続いていました。だから妻が亡くなっても私自身の実生活はあまり変わりませんが、精神的には大いに変わりました。今までは何をするにも潜在的に妻を意識して行動していました。夫婦の絆と言うか、心の支えと言うか、行動のつっかい棒と言うか・・・。それが無くなってしまいました。
 最近皆さんに「大変でしたね。お疲れでしょう」とよく言われます。肉体的にはそれほど疲れてはいないと思いますが、支えが無くなって、つっかい棒が取れてしまって、気持ちの置き所が分からなくなってしまい、精神的にはかなり疲れていると思います。歯が痛いこともあって元気が出ません。

 “男やもめは直ぐ朽ちると言うが本当に後を追うようにすぐ逝くのも残念だ。元々、妻が先に逝くのがおかしい。7歳も若い嫁さんをもらったのは、私が看取って欲しかったからだ。生前は色々あったけれど最後は愛する妻と大勢の子孫に囲まれて大往生したかった。約束が違うだろう。順序が逆だろう”。通夜の夜以来、妻の遺影を見る度にそんな思いが去来します。

 通夜の挨拶で、出会ってから昨日迄の彼女の人となりを私とのエピソードを含めて少し長めに話しました。
 「妻とは見合い結婚でした。当時は30才を超えて一人ものだと何か欠陥がある人のように言われる時代でした。私も29才になりましたのでソロソロ身を固めようと見合いを始めました。何人目かで会ったのが彼女でした。今までの人とは全く違って積極的に話しかけ、逆に質問もされてそれは活発な人でした。この人となら一生付き合えそうだと思い結婚しました。
 やがて長女が生まれ、次女も年子で生まれ、子育てが忙しくなりましたが、家のことはしっかり守ってくれていました。それどころか、三女も生まれた頃にはPTAの役員も引き受け、とに角、活動的で出べそでした。子供の手が少し離れた頃は、私が働いている平日にゴルフに行ったり、観劇したりしていました。
 ところが50歳過ぎくらいでしょうか、更年期が始まった頃から、すっかり動かなくなり、居間で椅子に座ったままテレビを見続けるような生活になってしまいました。それから、体格もどんどんふくよかになり、腰やひざを痛めて増々動けないようになりました。でもうつになったりはしなくて、朗らかで、食べることは大好きでしたので、食事に誘うとすぐ立ち上がりました。ご参列の皆様はその頃の妻をご存じの方が多いと思いますが、若い時はスリムとは申しませんが、結構均整の取れた美人でした。
 最後は腹膜播種がんとなり抗がん剤の効果も今一でしたので、医者としては余命について理解もしていましたし、覚悟も出来ていたつもりでした。でも現実になったら感情が表に出て、冷静では居られませんでした。」
 喪主の挨拶としては異例だったかもしれませんが、感情のこもった言葉で話したので列席者の心を少なからず揺すったようです。

 “あれからもう20日になる。何時までも感傷に浸っている訳にも行くまい。もう一花咲かせるつもりで新しい人生に踏み込もう。と言うほど若くは無いのでこの先穏やかに過ごせるように落ち着こう”。